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座標論

環境が変わると、人間は不安になる。しかし果たして、その不安はどこからくるのだろう?

不安を断つためには、まずそれを確実に捉える必要がある。少し考えてみた。
部屋の壁を思い浮かべてほしい。そこに画鋲が3つ刺さっているとして、それぞれにゴムひもを引っ掛ける。3方向から延ばしてきたその3本のゴムひもに、何でも良い、例えばピンポン球を付けるとする。

ピンポン玉はピタっと止まる。

では、画鋲が1つならどうだろう。ピンポン玉はゴムひもにぶら下がって揺れるだろう。2つであっても、重力に負けて不安定に違いない。


環境が変わるとは、ここでいうところの、画鋲を失くすことでは無いだろうか。あるいは、壁自体がすっかり変わってしまうことではなかろうか。

つまり、ここでのピンポン球の物理的不安定は、即ち人間の精神的不安定である。

ある決まった環境で過ごしている期間、人は自分の位置を定めるために、壁の上の画鋲を探す。あるいはたまたま画鋲を見つけて、そこからひもを引っ張っているのかもしれない。とにかく、その期間が長ければ長いほど、人は自分を中心とした『蜘蛛の巣』を形成して行く。

しかし環境が変われば、画鋲と離れすぎたり、何かの拍子で画鋲が失われる。あるいは壁自体が変わってしまう。こうなれば、ピンポン球はすぐ様ブラブラと震えだす。


では、この不安定を解消するためにはどうすれば良いのだろう。2つある。


①画鋲を増やす
②ピンポン球として生きる


①は話が早い。画鋲を増やせば良いのだ。友達を作れば良い、恋人を作れば良い。モノに愛着を持てば良い、ペットを買うのでも良い、行きつけの店をつくるのでも良い。とにかく、自ら画鋲を出来る抱け多く打ち立てて、ゴムひもをひっかけるのだ。

②は、そもそも画鋲を必要としない生き方をするということである。しかしそれも、「自分はこうである」と自分で座標を決めてしまうのではない。座標を決める時点で壁に依存しているし、実際壁が無ければ座標は決められない。そうではなくて、座標そのものを観念せずに生きて行くのだ。しかしこれは常人が成せる技ではない。思えば、役者というのはこういう職業だと思うし、ゆえに真の役者は常に身を切られるような苦痛に耐えているのだろうと思うのだ。



(Kid M)
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