Home > ------------<考える>-------------- > 形而上学的金魚2

形而上学的金魚2

全旅程は5日間であったが、前述の通り、貧乏旅行ということもあり、一泊はウラジミルの祖父母邸にお世話になった。見ず知らずの私にウィスキーと料理をご馳走して下さり、私はそのありがたみを噛み締めるあまりリビングルームで寝落ちしてしまった。

早朝四時位に目を覚ますと、妙に現実味を帯び始めた将来についてつい先程まで語り合っていたはずのウラジミルは一人、和室の布団に埋もれていた。金魚は腹を上にして浮いていた。

旅行の目的は二つあった。


①美術館を巡る
②友人に会う


である。



①美術館を巡るというのは、最も知的な自慰行為になる危険性を孕んだものであるので(殊に私のような浅学な学生であれば尚更だ)、そうならないように気を付けた。以下の具体的な目的を持って臨むことにしたのである。⑴作品の作者の意図を洞察すること、⑵美術館の外観、内装、レイアウト、デザイン、運営形態、ホスピタリティを観察すること、の二つである。


まず一つ目については、以前の雑記でも書いたが、当時の私は、抽象絵画に異様に興味があった。何がきっかけだったのか全くもって覚えていないが、あの「訳の分からない」感じに惹かれていたのであった。


「訳の分からない」モノを目にしたとき、反応として二種類あると思う。


「理解不能」と拒絶するか、「理解したい」と一端受け入れるか、である。


私は後者を選んだ訳だが、何も殊に好奇心旺盛だとかそういうことではなく、それなりの理由は別にあった。


抽象絵画は、絵画である以上、その制作には莫大な時間と金がかかってくる。ましてや人間が表現したものである。精神的にギリギリのところまで自分を追いつめて出来上がるものである。

かつ、抽象絵画は「抽象的」である以上、その解釈は多岐に渡るはずである。理解されることはもとより、作者の生活を担保する評価さえ、正当に得られる保証は無い訳である。

それほどタフで不安定な代物に、作者は何故自らの人生を注ぎ込み、作ろうとしたのか、その訳を少しでも知りたくなたのであった。


普通の人間がしないことを、何故ある人間はしたのか。芸術作品を鑑賞することは、人間を考えることだと思う。



幸い、私が滞在した時期は丁度、東京近代美術館でポロック展が開催されていた。ポロックの作品と言えば(時期に拠って異なるが)腕のしなりをそのままトレースしたような、いわば「訳の分からなさ」では突出したものであり、その分、自分の考えを巡らせる余地は十分にあった。


私は作品を見たり、あるいは作品の前の人々を観察したりして、ある程度の答えを持って帰ることが出来た。しかし内容については、私の稚拙さが明るみに出ないよう、書かずにおきたい。




ともあれ、私の抽象絵画への興味は一端ついえた。結局芸術は、色んなところに余裕を持っている人のものであるらしい。
スポンサーサイト



Comments: 0

Comment Form
サイト管理者にのみ通知する

Trackback+Pingback: 0

TrackBack URL for this entry
http://5lounges.blog.fc2.com/tb.php/86-1d6d7e75
Listed below are links to weblogs that reference
形而上学的金魚2 from 5'lounge

Home > ------------<考える>-------------- > 形而上学的金魚2

タグクラウド
5'lounges内を検索
リンク
QRコード
QR

Return to page top