- 2012-03-25 Sun 23:00:00
- ------------<考える>--------------
私の先祖は忍者であった。
根拠は祖父の証言にとどまる。
とどまるが、何となく格好良いので、出自を尋ねられたらそう答えるようにしている。
「先祖ですか?忍者です」と答えると、まず「おお」とか「へえ」と唸られ、そして「俊敏なんだろうな」とか「高く飛べるんだろうな」挙げ句の果てには「忍術が使えるのかな」というかなりハードルの高い期待を持たれる。しかし俊敏でもないし、高くも飛べない私は匍匐前進でハードルをくぐり、何故か少し失望されてそこで出自の話は終わるのだ。
去年の暮れ、近畿地方の中央部を自転車で一周した。一周150キロ程であったから、かなり内陸を通るコースだ。京都は三条河原町を出発し、宇治、城陽を経て伊賀、甲賀を回る。その甲賀に、忍者屋敷があるのをご存知だろうか。
祖父の証言に拠れば、その屋敷が私の旧家にあたることになる。丁度良い機会なので、友人と三人で、その忍者屋敷に立ち寄ることにした。自分のルーツを探るのだ。
私に俊敏さが欠けていたがゆえに、予定より少し遅れて屋敷につくと、所長らしき男性が温かく出迎えて下さった。かつて忍者が飲みまくっていたという健胃効果のあるお茶を頂いた後、一通り屋敷内を案内して頂くことになった。
そこで私達が知ることになったのは、「忍者という存在は、完全なる創作である」、という事実だった。黒ずくめのコスチュームや、水の上を歩くような芸当は全て嘘っぱち、後世の人間がゾクゾクするための勝手な妄想だったのだ。嗚呼!私のルーツよ!俊敏で高く飛べる私のルーツよ!
しかしそれは同時に、別の事実の存在を意味する。まずこの屋敷は元禄年間に建造されており(この時点ですでに、一般的な『忍者』の活躍時期からずれていることになる)、現在の姿は、代々薬屋を営んできた当家の主人が、泥棒や強盗から身を守るため、どんでん返しや地下道といった仕掛けを後から増築したことに始まるというのだ。
それらの仕掛けは他にも、隠し梯子や隠し部屋など数多く潜んでいるのだが、一つ一つ見ていくと、あることに気が付く。仕掛けはどれも、泥棒や強盗といった外敵と戦うことを全く想定していないのである。いわば家の人間が「逃げる」為だけに特化した仕組みなのだ。
実はここに哲学がある。
<人間、命さえ助かれば、なんとかなる>
<戦いでは、負けては命を落とし、勝てども別の形で仕返しを受けかねない。戦うこととは、如何に愚かなことか>
こういった考えが、当家の決して平坦ではなかった歴史的境遇の中で、培われていったらしい。主人はとにかく家族を守るために、仕掛けを作り、受け継いで行ったのだそうだ。
私は感動した。もう俊敏でなくて良い、高く飛べなくても良いぞ...!
という話を、先日、大学の居合道部に所属する友達にしたところ、「似たような考え方、剣道にもあるで」という。それが興味深かったので、ここで紹介したい。
武士の「武」という字は、「戈」(ほこ)という字と「止」(やむ)という字に分解できる。これに触れて、剣道には「戈(ほこ)を止む(やむ)るを武と成す」という言葉があるらしい。
これは、剣道は「人を殺すためでなく、自分の身を守るための」武道であるという一つの根源的理念を表したものであるのだそうだ。
刀というと、時代劇の派手な斬合いを思うのだが、真の武士は人を斬らないのだ。人を斬らないのが、真の武士なのである。
...しかし何故、そういった理念が生まれたのだろうか。
今夜中に調べるのには、私は俊敏さを欠いている。
(Kid M)
とどまるが、何となく格好良いので、出自を尋ねられたらそう答えるようにしている。
「先祖ですか?忍者です」と答えると、まず「おお」とか「へえ」と唸られ、そして「俊敏なんだろうな」とか「高く飛べるんだろうな」挙げ句の果てには「忍術が使えるのかな」というかなりハードルの高い期待を持たれる。しかし俊敏でもないし、高くも飛べない私は匍匐前進でハードルをくぐり、何故か少し失望されてそこで出自の話は終わるのだ。
去年の暮れ、近畿地方の中央部を自転車で一周した。一周150キロ程であったから、かなり内陸を通るコースだ。京都は三条河原町を出発し、宇治、城陽を経て伊賀、甲賀を回る。その甲賀に、忍者屋敷があるのをご存知だろうか。
祖父の証言に拠れば、その屋敷が私の旧家にあたることになる。丁度良い機会なので、友人と三人で、その忍者屋敷に立ち寄ることにした。自分のルーツを探るのだ。
私に俊敏さが欠けていたがゆえに、予定より少し遅れて屋敷につくと、所長らしき男性が温かく出迎えて下さった。かつて忍者が飲みまくっていたという健胃効果のあるお茶を頂いた後、一通り屋敷内を案内して頂くことになった。
そこで私達が知ることになったのは、「忍者という存在は、完全なる創作である」、という事実だった。黒ずくめのコスチュームや、水の上を歩くような芸当は全て嘘っぱち、後世の人間がゾクゾクするための勝手な妄想だったのだ。嗚呼!私のルーツよ!俊敏で高く飛べる私のルーツよ!
しかしそれは同時に、別の事実の存在を意味する。まずこの屋敷は元禄年間に建造されており(この時点ですでに、一般的な『忍者』の活躍時期からずれていることになる)、現在の姿は、代々薬屋を営んできた当家の主人が、泥棒や強盗から身を守るため、どんでん返しや地下道といった仕掛けを後から増築したことに始まるというのだ。
それらの仕掛けは他にも、隠し梯子や隠し部屋など数多く潜んでいるのだが、一つ一つ見ていくと、あることに気が付く。仕掛けはどれも、泥棒や強盗といった外敵と戦うことを全く想定していないのである。いわば家の人間が「逃げる」為だけに特化した仕組みなのだ。
実はここに哲学がある。
<人間、命さえ助かれば、なんとかなる>
<戦いでは、負けては命を落とし、勝てども別の形で仕返しを受けかねない。戦うこととは、如何に愚かなことか>
こういった考えが、当家の決して平坦ではなかった歴史的境遇の中で、培われていったらしい。主人はとにかく家族を守るために、仕掛けを作り、受け継いで行ったのだそうだ。
私は感動した。もう俊敏でなくて良い、高く飛べなくても良いぞ...!
という話を、先日、大学の居合道部に所属する友達にしたところ、「似たような考え方、剣道にもあるで」という。それが興味深かったので、ここで紹介したい。
武士の「武」という字は、「戈」(ほこ)という字と「止」(やむ)という字に分解できる。これに触れて、剣道には「戈(ほこ)を止む(やむ)るを武と成す」という言葉があるらしい。
これは、剣道は「人を殺すためでなく、自分の身を守るための」武道であるという一つの根源的理念を表したものであるのだそうだ。
刀というと、時代劇の派手な斬合いを思うのだが、真の武士は人を斬らないのだ。人を斬らないのが、真の武士なのである。
...しかし何故、そういった理念が生まれたのだろうか。
今夜中に調べるのには、私は俊敏さを欠いている。
(Kid M)
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